アレキサンダーファン
2014年04月掲載
プロフィール
森雅彦(もり・まさひこ) 森雅彦
(もり・まさひこ)

東京藝術大学卒業。ホルンを守山光三、(故)千葉馨の両氏に師事。カールスルーエ国立音楽大学大学院を最優秀の成績で卒業。シュトゥットガルト国立音楽大学専修科修了。 これまでにホルンをユールゲン・ダンカー、ゲルト・ザイフェルト、ヨアヒム・ベンシュ、(故)カール・ビーリッヒの各氏に師事。シュトゥットガルト国立歌劇場契約団員をはじめシュトゥットガルト放送響、バーゼル放送響、カールスルーエ歌劇場、南西ドイツフィルハーモニー、カンヌ室内管弦楽団、等エキストラとしても活躍。ザクセン国立管弦楽団首席ホルン奏者を務め帰国。現在、神奈川フィルハーモニー管弦楽団首席ホルン奏者。洗足学園音楽大学非常勤講師。

使用楽器:
アレキサンダー 103GBL
使用マウスピース:
Bruno Tilz T6(ボアサイズ4.4mm)

第41回 プレーヤーズ
森雅彦 インタビュー

国内外のホルンプレーヤーにスポットを当て、インタビューや対談を掲載するコーナー。
ホルンについてはもちろん、趣味や休日の過ごし方など、
普段知ることの無いプレーヤーの私生活についてもお伝えします。



─森さんは、高校時代から今に至るまで、ずっとアレキサンダーを吹き続けていると言うことですが。

 ホルンを始めたのは、中学校の吹奏楽部です。僕のいた岡山県の総社東中学校は吹奏楽コンクールで中国大会には出ていたのですが、全国大会にはいつも島根の出雲第一中学校が選ばれていました。3年生のときには念願かなって全国大会に出場することができたのですが。その出雲一中の人たちが持っていたのがアレキサンダーで、ゴールドブラスの103が4本そろっていたんです。それを見ながら「いつかは欲しいな」と思っていました。
 中学校2年生のときに先生がイエローブラスのラッカーのかかった103を持って来て、吹いてみるとそれまで吹いていたホルンとは吹き心地がまるで違うのに驚きました。中学生には息が入りすぎてしまい、すぐに息が足りなくなってしまうような感じでした。でも次第に慣れてきて「やっぱりアレキサンダーってよく鳴るんだな」と。それがアレキサンダーを吹いた最初でした。


─高校時代も吹奏楽部に?

 高校には吹奏楽部がなかったので、岡山市ジュニアオーケストラというところに入ってホルンを続けましたが、志望校に合格したのでご褒美として夢だった103を買ってもらえたんです。僕の兄は今札幌交響楽団でフルートを吹いているのですが、彼が国立音大に進学したのをきっかけに、自分も音楽方面に進もうかなと思い始めて、当時岡山市ジュニアオーケストラを指導されていた(故)新田厚先生に師事して東京藝大を目指しました。
 その頃、守山(光三)先生がドイツから帰って来たばかりで、小澤征爾さんの指揮でベルリオーズの《幻想交響曲》を演奏されたのを聴いたのですが、そのときは守山先生とは知らず、でも「すごい良い音でホルンが鳴るな」と思っていました。吹いていたのはゴールドブラスの103でしたね。新田先生に「彼は俺の同級生だから、これから東京にレッスンに通え」と言われて守山先生のところにレッスンに行くことになりました。それが高校2年生のときです。初めて守山先生のレッスンで「ホルンてこんな音がするのか!」と。すごい美しい音で、衝撃が走りました。そこからアレキサンダーの魅力に取りつかれたようなものです。

森雅彦

─それで、見事東京藝大に進学し、その後ドイツに留学。

 東京藝大に入ってからわかったのですが、自分の楽器はピッチが低めで、他の人は当時A=445とか446という高い傾向があったために、どうも周りと合わない。そこで新しい103のイエローブラスに買い替えることになりました。ところがその楽器はローターがプラスチックでできているもので、軽くて動きは良いのですが、日本では夏になると膨張して動かなくなるんです。仕方がないのでロータリー周りを全交換して、ずっと使っていました。
 その後ドイツに留学したときに、当時話題になっていた200周年モデルを吹かせてもらったら重厚な感じがして良かったので、103は手元に残しておいて、200を使うことにしたのですが、吹いてみるとやはりきつい。たまたまマインツのアレキサンダーに行ったら、出来立ての1103のゴールドブラスがあって、吹いたらすごく良くて即決しました。カールスルーエ国立音楽大学大学院の卒業演奏会にはそれで臨みました。


森雅彦

─卒業してからは?
 ちょうどシュトゥットガルト国立歌劇場のオーディションがあることを知り受けることにしました。ところが曲がR.シュトラウスのホルン協奏曲第1番で、「それなら103の方がいいのかな」と、大学時代から使っていた103を再び引っ張り出してオーディションを受けたら合格して、契約団員になりました。
 歌劇場に入ってみたら、周りはみんな103を使っていて、首席と副首席−−つまり1番と3番の人がニッケルのベルを付けていたんです。吹かせてもらうと、音がすぐにパリンと割れなくて良いんですよ。当時僕はベルリンの(ゲルト)ザイフェルト先生のところにレッスンに通っていまして、今は札幌交響楽団にいる折笠(和樹)君のところにいつも泊めてもらっていたんです。そうしたら彼が「ニッケルのベルを買ったんですけれどもう使わないのでいりませんか?」と言うんですね。早速吹かせてもらって「買う!」と(笑)。実は今使っているベルはそれで、楽器は変わってもベルはずっとこのニッケルのベルを使い続けています。




少しでも平坦に吹いてしまうと、すぐに後ろから文句が飛んで来ました

─(故)カール・ビーリッヒ氏に付くようになるのは、その後ですか。

 シュトゥットガルト国立歌劇場の契約が終わってからシュトゥットガルト国立音楽大学に入ることにしました。受験でR.シュトラウスの1番を吹いていたら、カール・ビーリッヒ先生がいきなり前に出て来て演奏を止めて、「そこをもう1回吹いてみろ」と。その場で「クレッシェンド!」「ディミヌエンド!」「ピアノ!」「フォルテ!」と完全にレッスンになってしまって(笑)。当初僕はヨアヒム・ベンシュというシュトゥットガルト放送響の人に付くことが決まっていたのですが、ベンシュ先生の助言もあってビーリッヒ先生のところにもレッスンに行くようになりました。そこでも、周りの学生たちはみな103でしたね。
 その後、1991年に旧東ドイツのケムニッツ――以前のカール・マルクス・シュタットという街のオーケストラのオーディションを受けて入ったのですが、そこの3番吹きの人もビーリッヒ先生のお弟子さんでした。その人もかなりの年輩でしたが、なにしろビーリッヒ先生というのは、ペーター・ダムの先生だった人ですからね。旧東ドイツにホルン奏者を300人近く輩出した人です。僕が習ったときにはもうホルンは吹いていなくて、物語をしゃべったり、身振り手振りで踊ったりしながら指導していました。「お前、弓道を知っているか。ハイトーンは、矢が的に吸い込まれるような感じで吹くんだ」とか「禅を組んで無心になれ。無心になって音楽に陶酔するんだ」とか、いろいろなことを言われました。常に「とにかく音楽をしろ」と言われて、ちょっとブレスを変なところで取っただけですぐ止められて、「そんな非音楽的なところでブレスするな。もっと考えろ」と。


─ところで当時のケムニッツでは、ホルンのスタイルはどうでしたか。

 ホルンに限らず、金管も、木管もいわゆる“西ドイツ”とは違いましたね。まさにダムがいたころのシュターツカペレ・ドレスデンのスタイルで、みんなヴィブラートをかけました。3番ホルンの人は僕が入った時には57歳で、ワイマールでペーター・ダムと一緒に勉強された人です。ビッグローターの古いクルスペを使っていました。他の人はメーニッヒでした。
 僕の持っている楽器を見て「なんだその楽器は?」と言われましたよ(笑)。「これがアレキサンダーか!」ってね。東西ベルリンを隔てるブランデンブルク門が開いて2年くらい経ってからですが、社会主義の時代が長かったわけですから、根本的な考え方が違うのを感じました。演奏スタイルもあまりに違いましたね。


─森さんは、そこではどういう吹き方をされていたんですか。

 僕はそれまで習った通りに吹いていました。ヴィブラートは美しいなとは思いましたけれど、自分でかけようとは思いませんでした。かけなくても周りは何も言わないのですが、音楽については、少しでも平坦に吹いてしまうと、すぐに後ろから文句が飛んで来ました。何かあると「もっと音楽をやれ。お前はビーリッヒに何を習ったんだ!」と言われて。だからひとつのフレーズを吹くのでもいろいろ考えながら、一生懸命「音楽をやるように」「歌うように」していました。自分にとってはとっても勉強になった職場ではありましたね。


森雅彦

─その後帰国して神奈川フィルに入られたわけですね。
 ケムニッツで2年目に神奈川フィルのオーディションに受かったので、帰国して神奈川フィルに入りました。しかしそこは、7年間いたドイツとは別世界です。ピッチもまるで違うし、音色も違う。当時ドイツではチューニングをA=444Hzでして、そこから徐々に上がって447くらいまで行っていたと思います。帰ってきたら442ですからね。チューニング管をほぼ全部抜いて、右手もかぶせ気味にしていたので、バランスが取れないし、音も1人浮いてしまう。周りからも「もっとセクションとしてまとまった音を出さないと」ということを言われて、あれよあれよという間に大スランプに陥って、3年間くらい立ち直れませんでした。
 ビーリッヒ先生に習ったような“音楽”をやろうとすると、「森節」と言われたりとか(笑)。当時まだ29歳でしたし、神奈川フィルがやってきた伝統というものも守らないといけないので、ある程度我慢しなければいけないなと思いつつ……。どういうふうに立ち直ったか、よく覚えていないのですが(笑)。あるとき、吹っ切れたんです。「合わないものは合わないんだからしょうがない。俺は俺なりにやるしかない」とね。それから少しずつ光が見えてきました。




17歳で最初の103を買ってもらって以来、34年で9本のアレキサンダーを…

─神奈川フィルで使っていたのは、大学時代にロータリーを全交換したイエローブラスの103ですよね。

 そうです。その楽器もそろそろ12年くらいになっていたときに、ベルリン・ドイツオペラのメンバーから「楽器を買わないか」という話があって、新しいイエローブラスの103に買い替えたのですが、半年くらい経って「やっぱり気に入らないな」と。その頃知人からゴールドブラスの107を譲ってもらうことになりまして、吹いてみると、昔の守山先生を思い出すような、透き通った良い音がするんですね。それで、103もゴールドブラスの楽器に買い替えました。
 その103を8年くらい使っていて、重厚な音が自分では気に入っていたのですが、よそのオケのエキストラに行ったときに音が埋もれるような気がして再びイエローブラスの楽器に買い替えたのですが、どうもやっぱり軽いような気がする(笑)。ハンドハンマーの楽器を吹かせてもらったらなかなか良かったのですが、その楽器はもう行くところが決まっていて、弟子のために普通のイエローブラスの楽器を選ぶ機会があったときに、その中の1本がすごく良かったので自分のものにしてしまいました(笑)。


森雅彦

─かなり紆余曲折がありますね。
 まだ続きがあって、その楽器はとても良い楽器だったのですが、やはりゴールドブラスの音を求めている自分がいることに気づいてしまったんです。そうしたら、僕が昔生徒に選んであげたゴールドブラスの楽器を、「自分は産休に入って多分ほとんどホルンは吹かない」ということで借りたら、それがまた良い。買って1年くらいの自分の楽器と取り替えないかと言ったら、その子も大喜び。僕も大喜び(笑)。それが今使っているゴールドブラスの103です。

─それにしても、ものすごいアレキサンダー遍歴ですね。
 17歳で最初の103を買ってもらって以来、34年で9本のアレキサンダーを買った計算になります(笑)。


─でも、そのニッケルのベルはドイツ時代からずっと変わっていないんですね。

 2回オーバーホールして、2回ラッカーをかけ直してます。2回落としてるし(笑)。普通のゴールドブラスのベルだと僕には少し暗すぎるということもあり、これが自分の好きな音色かなと思ってます。折笠君には本当に感謝です。実はもう1つ新しいニッケルのベルを持っているのですが、ほんの少し形状が違うので鳴り方と音程が違うんです。今使っているのがだめになったら使おうと思っていますが。


─それだけ楽器を替えて、すべてアレキサンダーだったのがすごい。

 中学生のときにアレキサンダーを吹いてしまって、守山先生に出会ってしまったことで、もうアレキサンダーの音色から逃れられなくなってしまいましたね。でもすべては守山先生の責任です(笑)。僕が目指している音色というのは、当時ドイツから帰って来たばかりの守山先生の出していたアレキサンダーの音なんです。今でもこうやってホルンを吹いていられるのは守山先生のおかげだと思っています。


─アレキサンダーの音の特徴はどのあたりにあると思いますか。

 いつも思うことは、遠くで聴くとアレキサンダーの音って通って行くんです。昨年神奈川フィルのオーディションで思ったのですが、やはり他の楽器とは差が出ますね。ものすごく上手な人は他にもいるのですが、やはり音が通るのはアレキサンダーなんです。ただし上手下手がはっきりと出ます。上手い人はものすごく良い音でパーンと飛んで来ますが、そこそこの実力の人が吹くとコントロールし切れていないのがわかってしまう。その代わり、吹き手と相性もピタッと合ったときには、アレキサンダーは素晴らしい音を出します。人と楽器が一体になって客席まで聴こえてきますから。

森雅彦



その曲に見合った音楽と、自分らしいホルンの音色でお客さんに喜んでいただければいい

─ところで、ザイフェルトさんの話をまだうかがっていませんでした。

 彼が音を一発出した瞬間に、「神が与えたものが違いすぎる」と思いました。「いくらがんばってもこの音は出せない」と。唇、顎、お腹、どれを取っても「この人はホルンを吹くために生まれて来ているんだな」という感じでした。この人を追い越すのは絶対無理だけれど、近づく努力ならできるだろうと思って、それから試行錯誤ですよ。「どうしたらあんなに太くて響く音が出るんだろう」と思って、口の中を開けたり、唇を開けたり閉めたり、息を太くしてみたり。
 レッスンでは意地悪なこともいっぱい言われるんです。「初心者の方が上手いな」とか。それで、「はいもう一回。3、4」と言った瞬間に音が出ないと怒られるんですよ。彼はマウスピースを当てた瞬間にぱっと音が出せるので、それができて当然と思っている。だから話を聞いているときにはいつでも音が出せる態勢を取っていました(笑)。
 でも頭の回転も速いし、何より観察力がすごい。「どうして音が外れたか」という理由をすぐに指摘できるんです。「たった半音なのに口を開けすぎ」とか「そこは息を押してはいけない」とか、細かい奏法上の注意が飛んでくるわけです。だから守山先生の次にザイフェルト先生に出会って、音色的なこと、そしてホルンを吹く上での技術的なことの筋道を付けてもらったと思います。


─近づこうと試行錯誤して、つかんだことはありましたか。

 息の使い方、お腹の使い方ですね。単に息を支えるということではなく、お腹を細かく使って音をコントロールするということですビーリッヒ先生も同じことを言っていましたが、「それが音に出てはいけない」とも言っていました。1音1音に段が付いてしまうと非音楽的になってしまうということです。


─逆に今は教える機会も多いと思いますが、どんなことをよく言いますか。

 「強くタンギングをするな」ということでしょうか。みんな吹奏楽で「タタタタタッ」というタンギングを習ってきているのですが、ドイツ人はそういうふうにはやらない。舌先ではなく、そこから2〜3cm後ろのところで「デュデュデュデュ」とか「テュテュテュテュ」というタンギングをするんです。そうすることで出だしが「プルン」といったりせずに、最初から丸い音が出てくる。タンギングではなく、お腹の瞬発力ではっきり音を出すんです。柔らかいタンギングでも鋭い息で吹けば鋭い音は出てきます。ベルリン・フィルの人たちも、見ているとみんなお腹で音を自在にコントロールしていますから、タンギングなんてあまり関係ないんです。
 あと、弟子から学ぶことも多いですよ。それから、エチュードなどはお手本を吹かなければならないので、弟子よりは上手く吹かないといけないわけですから(笑)、一緒に練習しているようなものです。今までで1人だけ、自分より上手いと思う弟子もいました。ただその人は本番が弱くてね。


─森さんは本番には強い方ですか。

 僕は本番には弱いと思っています。震えることもありますし、それなりの対処をすることと、半分はあきらめること(笑)。それは「音楽をあきらめる」ということではなく、「完璧に吹いてやる!」というような意気込みで肩に力が入らないようにすること、そして冷静でいることです。自分自身に100点満点を付けられるような演奏はしてみたいですが、それはまだありません。ザイフェルト先生のように吹けたら100点付けられるかもしれませんが、それを基準として、100点に近づけるような演奏を心掛けたいと思っています。その曲に見合った音楽と、自分らしいホルンの音色でお客さんに喜んでいただければいいかなと思っていますね。

森雅彦

 




「趣味」のコーナー

─森さんのご趣味は?

 釣りが好きなのですが、なかなか行く時間がなくて。1年に1回行ければいいかなというところです。横浜に海釣り桟橋というものがあって、この夏は朝から晩まで真っ黒になって釣りをしました。朝のうちはまるでかからなかったのですが、夕方になって急に釣れ出して「これで晩ごはんのおかずができた」とほっとしました。やはり釣れたての魚ほどおいしいものはないですから。釣れたときの喜びもありますが、食べるときの喜びはもっと大きいですね(笑)。


─お休みのときはどんなことをしていることが多いですか。

 家でごろごろしていますね(笑)。でも最近はスポーツジムに通い始めました。この間体力的にまずいなと思うことがあって。年末年始ホルンを全く吹かないで、ニューイヤーコンサートで1週間ぶりにホルンを吹いたんです。そうしたら途中で手がだるくなってきて、「これは筋力がかなり落ちてる」と思い、今年の1月からジムに行くようになりました。月に何回かしか行けていないんですが。


─1週間吹かなくて口の方は問題ないんですか。

 それで慣れていますので。最初多少は「人の口」になってるかなとは思いますが、吹いていればすぐに戻って来ます。


─今後やってみたいことはありますか。

 昔はパン屋さんになりたいという夢がありました。もともとパンが好きだったのですが、ドイツに行ったら本当にパンがおいしくて。しかも種類が豊富なんですね。そういうおいしいパンを自分でも作ってみたいというのはあります。だから、ホルンが吹けなくなったらパン屋さんになりたいです。


─今までパンを焼いたことはあります?

 ないんですよ。だからやるなら一から勉強して、小麦粉を厳選するところから始めないとだめかなと思います。あと、ドイツで大好きになったのはハチミツですね。小さいころから親戚が養蜂をしていたのでレンゲのハチミツには親しんでいたのですが、ドイツにいってハチミツの種類の多さに驚きました。「種類によってこれほど味が違うのか」ということもわかって。それをパンに塗って食べるとおいしいのですが、また種類によってそれぞれのパンとの相性があるんです。その他ハム、ソーセージ、チーズ、ジャガイモ料理、シュニッツェル等々、ドイツでは未知の美味しいものとたくさん出会いました。日本では手に入らないものも多くて、ちょっと寂しい気もしますけれどね。

森雅彦

 




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