アレキサンダーファン
2006年10月掲載
プロフィール
守山光三(もりやま・こうぞう) 守山光三
(もりやま・こうぞう)
1967年東京芸術大学音楽学部器楽科卒業。同年、旧西ドイツ・ベルリン音楽大学入学。72年卒業。在学中の68年よりベルリン交響楽団に入団。その後ベルリン・ドイツ・オペラ管弦楽団、ライン・ドイツオペラ管弦楽団、ドゥイスブルク交響楽団を経て78年から87年まで新日本フィルハーモニー交響楽団首席奏者を務める。
ホルンを谷中甚作、マルティン・ツィラー、ゲルト・ザイフェルト各氏に師事。
現在東京藝術大学教授。東京音楽大学講師。
使用楽器:アレキサンダー103G
第24回 プレーヤーズ
守山光三 インタビュー

国内外のホルンプレーヤーにスポットを当て、インタビューや対談を掲載するコーナー。
ホルンについてはもちろん、趣味や休日の過ごし方など、
普段知ることの無いプレーヤーの私生活についてもお伝えします。

─最近は演奏活動としてはどんなことをされていますか。
毎年8月には「草津国際音楽祭」に行っていますが、今年も参加いたしました。
あとは、大学における演奏会が頻繁にあり、現在は東京藝術大学の運営に携わっているということもあって、それで手一杯な状態です。


─大学の運営といいますと?
役割で言うと学長及び副学長補佐ということで、国立大学法人の6人いる役員の1人ということになります。一方で、ホルンを教えるという仕事は全く変わりませんので。


─守山さんご自身、藝大のご出身ですが、そもそもいつホルンを始めて、音大に行こうと思われたのですか。
守山光三 小学校時代にバイオリンを習わされていたのですが、才能がなかったのでやめてしまいました(笑)。中学校でブラスバンド部に入って、ホルンを始めました。当時は軍楽隊の影響もあったのでしょう。吹奏楽は女の子がやるものではなく、男の子が憧れるものだったのです。部活にも女の子はいませんでした。今とは逆ですね。
中学3年生で高校受験を考えなければならなくなって、親父に「ホルンを吹きたい」と言ったらえらく怒りましてね。「そんなことをしたら肺病になって死んじまうぞ」と本気で言うんですよ。家出寸前のところまで行ったのですがお袋がうまくなだめてくれまして。
その代わり「必ず藝大に入ると約束しろ」と。私も「必ず入る」と男の約束をしました。

それで初めて自分の楽器を買ってもらって、ホルンを習いに行ったのです。その頃ピアノを習っていましたので、その先生に紹介していただいて、当時の藝大の谷中(甚作)先生にレッスンを受けることになりました。

当時、谷中先生は茨城県の水海道の近くの石下に住んでいまして「上野に来るのには便利だよ」とおっしゃっていたのですが、その頃上野に来るのに2時間はかかっていましたから(笑)。
しかも2両ぐらいのディーゼルカーに乗って駅に着くとホームがない。田んぼに飛び降りるような感じですよ。帰りは停車場の近くの農家の呼び鈴を押すと割烹着のおばさんが出てきて、そのおばさんから切符を買うんです。そういうところでした。



─そこにどのくらいの頻度で通われていたんですか。
月に2〜3回は行っていました。東京の初台に住んでいましたが、片道4時間はかかっていましたよ。でも地方に住んでいた人はもっと大変で、夜行列車に乗って上京して、煤けた顔のままでレッスンを受けていましたからね。

まあそんなで高校は駒場高校の音楽科に入りました。そのまま高校3年間音楽を勉強して、親父との約束通り東京藝大に入りました。


─中学校のときから「将来ホルンを吹いていきたい」と思ったというのは、相当入れ込んでいたのですね。
とにかくホルンの広がりのある音に魅力を感じていました。どうも私は性格的に高音楽器は向いていないみたいでしたね。だからバイオリンもダメだったのでしょう。


─最初に買った楽器というのはどんな楽器でしたか。
国産は、ニッカンのピストンのシングルしかありませんでした。海外の楽器は米軍の払い下げ品が多かった。選択の余地はありませんでしたから。先生に紹介していただいたのがイギリス・ベッソンのホルンでしたね。


─藝大を卒業してドイツに留学されたのですね。
守山光三
当時、留学というのは難しかったんです。外貨の持ち出し制限があったり、身元引き受けがしっかりとしていないとパスポートがもらえませんでした。沖縄に行くにもパスポートが必要な時代でしたから。

私は大学3年の時から東京交響楽団で吹いていました。学生契約ということで給料をもらって大学にも行っていたわけです。
でも、大学4年生のときに、カラヤン指揮ベルリン・フィルが来日して、東京文化会館でブルックナーの7番を演奏したのを聴いてショックを受けました。ガーンと来ましたね。
すでに1年以上、日本のプロのオーケストラを経験していましたが、「これは全く違う」と。その時「このまま日本にいたら自分はダメになってしまう」と、本気で危険を感じたんです。それで決心しました。「これは行くしかない」と。

それから知り合いを通じてベルリンの先生を紹介してもらって、それからオケでもらう給料をすべてつぎ込んで、ドイツ語の個人レッスンを受けて、卒業した夏に、早速ベルリンに行きました。


─ドイツの中でも、ベルリンというのは決めていたのですか。
とにかくベルリン・フィルの先生につきたい、と思っていました。最初に付いた先生はフルトヴェングラーの時代に長いこと首席を吹いていたマルティン・ツィラーという人で、先日出た、ベルリン・フィル初来日のDVDにも映っています。


─ベルリンでのレッスンというものはいかがでしたか。
案の定、日本とはことごとく違いました。
でも、音符を吹くスタイルというのは、日本で谷中先生からもらっていたのと同じでした。谷中先生は日本のオーケストラの黎明期にドイツ人の隣で吹いていた人ですからね。いわばドイツ・スタイルだったわけです。


─最も違ったのはどういう部分でしたか。
『音量感』ですね。要するに、楽器を鳴らし切っているんです。私も、それをどんどん求めて行った結果、自分の音が出てきました。
ツィラー先生に3年習ったあと、ザイフェルト先生に2年間付きました。


─アレキサンダーはいつからお使いですか。
守山光三
大学1年生のときに103を買いましたが、それがめちゃくちゃ良かった。その楽器は結局23年間吹きました。
他の楽器もいろいろ吹きましたが、最初の103があまりにも良かったので、他の楽器に興味が移りませんでした。
自分の本当に気に入った楽器というのは1本しかないんですよ。私の場合それが103で、あとはそれをずっと追いかけて行くわけです。
現在メインで使っている103も20年経とうとしています。その次の1本になかなか巡り合わなくて悩んでいるところです。


─お使いの楽器はゴールドブラスですね。
私の103はすべてゴールドブラスです。イエローブラスは一度も持ったことがありません。
私の学生時代、103といえば赤が定番でした。今は逆転していますが。
というのは、ベルリン・フィルなどでオーケストラ全体の音が大きくなってきた時、その中に埋もれず、抜けてくる音を出すには黄色の方が向いているんです。ザイフェルトもそういう音を求めた。そしてバイロイトにドイツ中のホルン吹きが集まって来た時に、やはりトップであるザイフェルトの影響は大きい。それが世界に波及したのだと思います。


─楽器の影響の大きさというものをどう考えられますか。
中にはアンサンブルの中に違うメーカーの楽器が混じるのを嫌がる人もいますが、私はそうは思いません。
楽器というのはその人に一番合ったものを使えばいいのであって、自分が本当に楽器をコントロールできていれば、音色の変化も出せるし、自分の思うような表現ができるんです。だからいろいろな楽器が集まってもアンサンブルに問題が起こるわけがないんです。

楽器というのは自分が表現をするための道具ですから、自分の意図に応えてくれるものが一番だと思います。
私の場合はそれが103であったということです。



一問一答コーナー

─休みの日は何をされていますか?
休みの日は、事務処理ですね(苦笑)。
時間があれば釣りやキャンプなどに出かけるのは好きですが……。

─やはりアウトドアがお好きですか。
そうですね。海よりも山が好きで、山の中を歩いている分にはそれで一日終わってもいいくらいです。
それで、自然の中で食べるものを探すんです。木の実とか、草とか。
一度、藝大の構内の草を食べる会をやったことがありますが、ここのは不味いです。

─東京の真ん中で食べられる草なんてあるんですか?
ありますよ。銀座の草を食べる会もやったことがあります。
参加者は誰も信じていませんでしたが、袋一杯取ってきて、茹でたり天ぷらにしたりして食べました。最初誰も手を出さなかったのですが、一口食べたら「旨い!」って。あっという間になくなってしまいました。
釣りも含めて、要するに趣味は「自然の中で食べるものを探すこと」ですね(笑)。

当コーナーの情報はそれぞれ掲載時のものです。
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